☆倭姫の宝珠の願い☆

☆☆☆倭姫の願い☆☆☆

☆大宇宙の真理-合理性を知らしめる倭姫☆

Princess Japan Yamatohime showing the truth and the rationality of the Philosophy in the Mankind World

☆ 宝珠

如意宝珠-Cintamani
(にょいほうじゅ チンターマニ 梵: चिन्तामणि [cintaamaNi])とは、仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと。サンスクリット語でチンターとは「思考」、マニは「珠」を指す言葉で、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味である。如意宝、如意珠、または単に宝珠(ほうじゅ、ほうしゅ)とも呼ばれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

http://en.wikipedia.org/wiki/Cintamani

☆ NOTE:下記掲載の如意宝珠観音の人形の作品の画像の出典元 ☆:
http://www.pict-jp.net/odakobo/index.html
http://www.pict-jp.net/odakobo/kannon.html

倭姫

2016年9月3日土曜日

お吟さま

お吟さま(1962年)- 田中絹代 / Love under the Crucifix - Kinuyo Tanaka


2015/11/08 に公開
製作:にんじんくらぶ / 配給:松竹映画株式会社 公開:昭和37年(1962年) 6月 3日 監督:田中絹代 / 脚色:成沢昌茂 / 原作:今東光 / 撮影:宮島 / 有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子

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今東光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%B1%E5%85%89
今 東光(こん とうこう、1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽[注釈 1])、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。

作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。

経歴
新進時代
横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士山奉行家系の父・武平(ぶへい)、母・綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。四男 信巳(のぶみ)は早世。しばしば文学史年譜などに「横浜市伊勢崎町生まれ」とあるが、あきらかに間違いで、現在の横浜市中区伊勢町・宮崎町には、日本郵船会社(NYK)の社宅があった。父武平(明治元 9/4 生)は船長職の最古参で[注釈 2]、国内五港定期航路 品川丸を経て、海外航路 香取丸のキャプテンを務める。来日時のラビンドラナート・タゴールと知遇になったり、第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追われたが、智略によってこれを回避したりした。また、南インド・マドラスに寄港、船の修理で船渠(ドック)入りした折、アディアールで神秘思想に触れ「神智学協会 the Theosophical Society  註:霊智学会とも呼称」会員となる。以後「胡桃船長」の異名をとるほどに菜食主義に徹した有数の神智学者としても知られた。アニー・ベサント、ジッドゥ・クリシュナムルティと親交を深め、東京市本郷区西片町に「神智学協会東京ロッヂ 1920」を開設、鈴木大拙夫人で神智学者だったベアトリス・レインとも交流した。母、綾は、函館・遺愛女学校(遺愛学院)、明治女学校に学んだ才媛で佐藤紅緑(サトウハチロー、佐藤愛子の父)とは小学校の同級生だった。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、神戸の御影に家があり、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読、漢文に長け北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。

1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこのころ東郷のとりもちで、本郷三丁目の西洋料理店 燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した。(芥川龍之介がこのエピソードをもとに 短編『葱』を創作。)1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載される。この間、一家は神戸から東京市本郷区西片町に引越し、東光も実家に戻った。1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、神戸時代の知人(二弟の同級生)池田虎雄=麗進(大阪 千日前、日蓮宗 妙見宮 蓮登山自安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と号し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。

1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められ、菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表。1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。

しかし、菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外したこと、また『文藝春秋』1924年11月号が掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は直木三十五)に腹を立て反駁文を『新潮』に掲載したことなどをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立し袂を別ち、『文藝時代』も脱退した(文藝時代#『文藝時代』創刊をめぐる騒動を参照)。新潮社の中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。村山知義が表紙画を担当、間宮茂輔、サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した「異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となり、一時京都嵯峨野にも住む[注釈 3]。また関東大震災の時に一緒に逃げ歩いた、元帝国劇場女優の人妻とのちに結婚する。1925年に処女作品集『痩せた花嫁』(金星堂)を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼も増え、1926年には初の新聞小説『愛経』(東京日々新聞、大阪日日新聞)を連載。

1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。また「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年にプロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる[1](ただしこの著作は生出仁によるものであったという説が有力[2])。また、映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた[3]。しかし、妻フミ子の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。

文壇復帰
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[4]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。

1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。また、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、『神秘的人間像』(神智学協会刊 C・W・リードビーター僧正 原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。古美術関係の著述もあり、1943年『擇艸』華道御門流誌(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。

1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。

戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、少年期の出逢い以来の神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。

戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。

1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地、武蔵国分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。

調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][5]。

1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。保田與重郎が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。

出家
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[4]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。

1933年8月、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年2月、佐々木味津三の訃報に接す。3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[注釈 4]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。また、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[注釈 5]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現、岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現 白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し(谷崎潤一郎、佐藤春夫序文)、『神秘的人間像』(神智学協会刊 C・W・リードビーター僧正 原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。古美術関係の著述もあり、1943年『擇艸』華道御門流誌(水谷川紫山・千宗守ら同人 松田幸丸編集・擇艸舎発行)に執筆。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。1942年水の江瀧子が組織した「劇団たんぽぽ」の命名者でもあった。

1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)、東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。

戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸 (台東区)・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省(おさだ りゅうしょう)との親交を深めた。龍省は秀れた法華行者で霊能家であり、「易学史」執筆や、少年期の出逢い以来の神智学等「秘教義」研鑽時代の東光坊春聽法師の盟友的存在であった。しばしば、龍省の巫呪、口述する"古代秘史"をノートに書き留め続けていたという(夫人談)。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工会社(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を務めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。

戦後1946年秋、母綾の秘書役を務めていた千葉県印旛郡志津村(佐倉市志津)の旧家の人、蜂谷清(はちや きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢忠雄は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって(1947年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた(個人雑誌「東光」1953・「歓喜世界」1983~89)。

1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地、武蔵国分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。

調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1946年から1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。かつての調布・二本松の軍需工場、昭和鍛工会社跡地は、戦後、伊藤武郎による独立映画の撮影所となった[注釈 6][5]。

1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の弟子、念海和尚による再興[注釈 7]、無畏智道上人止住隠棲[注釈 8]など、歴代、高僧の隠居寺であった。保田與重郎が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」[注釈 9]といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。

文壇復帰
1953年2月「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編「創作代表選集」にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任した。

天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。

それまで天台院では法施への対価として、宝前に河内産の茄子や胡瓜、ときに軍鶏肉があがる、長閑、朴訥としたものだったが、東光和尚ブームの到来に一夜にしてバタくさいものになったと夫人は語った。「だって、それまでお布施ったって30円くらいでしょ。それが印税が入ってくるのですものね。」「お寺の修理だ、復興だって出てゆく。本山から給料が出るわけじゃないし。ネ。」「私が好きな作品は『悪童』。一番いい時代でした。」「毎日、毎日が面白かったのよ。言葉なんてちっともわからないのにね。」「東光は。オイ。今日はいい日だな。いい日だな。って言うけれど、何もいいことなんてないのよネ(笑)。檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)

作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村、八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)

1957年に東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会では、日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。その流れは1960年、山田耕筰、和田完二らとの「大阪文化協会」設立、第1回大阪文化まつり開催となってゆく。1958年には帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として、比較文学を講義。

この時期の作品として、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠木正成)」など歴史小説を数多く創作。天台院の名は全国に知られた。同院の再興につづき、貝塚市の水間寺、密蔵院(春日井市)、明眼院、安養寺など特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺し、印税を注ぎ込んでの寺院経営を手がけ、権僧正を拝命する一方、「オレは大工坊主みたいなものだよ。オイ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。取材に赴く先々、また執筆の途次、杖を、筆を留め、しずかに読経することしばしばであったという[注釈 10]。『悪名』は1961年に勝新太郎、田宮二郎出演の映画(大映)となりシリーズ化されるほど大ヒットした。

中尊寺貫主時代
僧侶としては、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっている。1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。

1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力、街頭で応援演説も行った。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び少々の誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。

晩年
天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を務め(1973年まで)、そのための辻説法も行った。

晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術(1973・1974)を受けるも、比叡山・法華総持院東塔 昭和大再建(さいこん)、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕 1975。不動堂(護摩堂)、涅槃堂、大書院等、中尊寺諸堂の諸整備、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、本尊・十一面観音菩薩像の造立発願 1976、と、あらたな時代に向けての天台教学改革提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、ヨーロッパ(耀盌展 1972)、ハワイ(天台宗海外伝道事業団 1975)と錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と執筆、テレビ出演、講演、口述を続けた。1975年から77年まで『海』に連載した、若いころの谷崎潤一郎を描いた『十二階崩壊』、週刊読売連載「友鏡 ― 宇野千代の巻」が絶筆となる。

1977年6月に体調を著しく崩し再々度の入院、そして急性肺炎を併発し、千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で9月19日遷化した。寛永寺根本中堂瑠璃殿における本葬儀には、東叡山輪王寺門跡 杉谷義周大僧正が、法号「大文頴心院大僧正東光春聽大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう)」を撰み大導師を勤めた。弔辞は、前夜パリから駆けつけた東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、椎名悦三郎が続き、皇太子からの供花、福田赳夫首相の献香、宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が続いた。坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らや、一般読者の青年も数多く参列した。

墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、柴田錬三郎の撰文による文学碑があり、中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔が建てられ、三回忌、七回忌…と年忌が営まれた。寛永寺における折々の偲ぶ会には、松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけた。

なお文壇復帰からの作家活動や宗教活動を守り支えた きよ夫人は、2008年9月19日という夫の祥月命日と同月同日死去。「慈観院闊朗清妙大姉」の法号は、東叡山寛永寺一山圓珠院、杉谷義純住職(天台宗元宗務総長)の撰による。大和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、愛らしく剛い人柄そのものを表す。千葉県佐倉市での葬儀には、杉谷師が導師を勤め、中尊寺、天台寺、天台院等諸師による読経、法弟子瀬戸内寂聴尼も列座、法類、法縁が随喜し、多数の有縁の士が参列した。献花には福田みどり(司馬遼太郎夫人)の名もみられた。

作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。

この年の『中央公論』2月号に掲載した短篇「闘鶏」は、浅吉親分こと、岩田浅吉に教えられた闘鶏の魅力に取り憑かれて作家としての情熱を取り戻し、数年かけて取材執筆したもので、闘鶏を通して河内の風土を描いており、平野謙、高橋義孝はこの時代の秀れた代表作として推すなど高く評価されている。また河内出身の尼僧の愛憎、苦悩と生き様を描く『春泥尼抄』は映画化もされて話題になり、尼僧ブームを巻き起こした。

自伝的長編小説として『悪童』『悪太郎』がある。

原作映画
『お吟さま』 配給:松竹映画株式会社、田中絹代監督、成澤昌茂脚色、1962年、有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子
https://www.youtube.com/watch?v=8kJvGyhWTnQ


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千利休

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91

以下Wiki抜粋

利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。

生涯
和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている[2]。

千利休を題材にした作品
お吟さま(今東光 1957年 淡交社)、数社で再刊

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高山右近

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。

父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

通称は彦五郎。有名な「右近」の呼び名は私的な名で、正式な官位としては大蔵少輔までなっている。諱は友祥(ともなが)、長房(ながふさ)、重友(しげとも)など複数伝わるが、文書等で確認できるのは「重友」のみ。この項目での呼称は「右近」で統一する。因みに、長房の名は嫡男と孫にも付けられている(ジョアン、フランシスコ)。

洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユストとも)[注釈 2]。 号は南坊。千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。

生い立ち
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。

そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。

永禄7年(1564年)、三好長慶がに没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。

永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。

元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとる。村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となった。

和田惟政の死後、高槻城はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐していた。しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまう。これにより高山家が主だった相談役となったが、これを良く思わない和田家臣たちが、惟長に高山親子の暗殺を進言した。高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いた。友照はこの事を村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべきだ。自分は兵をもって援助する」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えた。

元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出した。高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになった。夜だった上に乱闘で部屋のロウソクが消えてしまい、真っ暗になったが、右近は火が消える前に惟長が床の間の上にいるのを見ており、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせた。だが、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れたが、同地で死亡した[注釈 3]。

この事件の後、高山父子は村重の支配下に入った。村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができた。2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れた。

友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えた。

荒木村重の反乱
天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗した。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めた。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスした。

高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫する。

城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。懊悩した右近はここにいたって信長に領地を返上することを決め、紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭した。荒木村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返った)。この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

キリシタン大名として
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った[注釈 4]。 また、この件で勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められている(多聞院日記)。その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などがそうである。細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

国外追放
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。

死後
高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請した[5]。

同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し[6]、翌平成28年(2016年)1月22日に教皇フランシスコが認可した[7]。 同年6月23日、カトリック中央協議会は教皇庁国務省が高山右近の列福式を、2017年2月7日正午から大阪市で執り行う(会場は大阪城ホールの予定)と発表したことを明らかにした[8]。

逸話
バテレン追放令を出した秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせて棄教を促したが、右近は「主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士である」と答え、利休に説得を諦めさせた。

高山右近を主題とした作品
吉川英治 『高山右近』 講談社吉川英治文庫全2巻
加賀乙彦 『高山右近』 講談社のち講談社文庫
長部日出雄 『まだ見ぬ故郷 高山右近の生涯』上下、毎日新聞社のち新潮文庫

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グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(オルガンティーノ・ニェッキ・ソルド/ニェッキ・ソルディ、Organtino Gnecchi‐Soldo/ Gnecchi‐Soldi, 1533年 - 1609年4月22日)は、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。

生涯
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣された。来日は1570年6月18日(元亀元年5月15日)で、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経を研究した[1]。 オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年(天正5年)から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者数を1500から1万5,000に増やしたという[2]。 オルガンティノとともに日本に来て九州での布教責任者となったフランシスコ・カブラルが大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、その頑固で短気な性格から多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった[3]。

オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄された。1583年(天正11年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置された。

1587年(天正15年)に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1591年(天正19年)、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。1597年(慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。

日本観
日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている[4]。また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている[3]。

関連項目
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
芥川龍之介 小説「神神の微笑

関連作品
小説:辻邦生『安土往還記』 主人公のひとりとして登場する。

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熊井啓への旅

http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kumaikei/kuma41.html

お吟さま
意志貫く女性 主役に
井啓の第九作は「お吟(ぎん)さま」だ。
お吟は、安土(あづち)桃山時代の茶人、千利休(せんのりきゅう)の後妻(宗恩)の連れ子という設定である。血の通った娘ではないが、利休とお吟の間に は真の親子以上の強い絆(きずな)が築かれている。彼女は堺の町で美しく成長し、二十歳になっても嫁入りせず、幼なじみの妻あるキリシタン大名、高山右近 (うこん)を恋慕していた。
堺は摂津(せっつ)、和泉(いずみ)、河内(かわち)の三国の境に位置し、畿内(きない)と瀬戸内海を結ぶ要衝(ようしょう)の地。貿易港の町として古 くから栄え、応仁(おうにん)の乱で京都が荒廃すると、京に替わる物資の集散地となり、堺商人の活動はいっそう活発した。町民は周辺の武将に金を贈って町 の安全を保ち、自治を推し進めた。自治の中心は会合衆(えごうしゅう)、納屋衆(なやしゅう)と呼ばれた富豪商人たち。絶頂期に堺を訪れた宣教師は、イタ リア・ベニスのごとく「多数の富裕な商人が住み、大いなる特権と自由を有した共和国のようだ」と母国に報告したという。
利休はそんな堺に生まれた。豊かな経済力を背景に、茶の湯に代表される都市文化が花開いた真っただ中で育ち、茶人としての道を歩んだ。豊臣秀吉の天下統 一の完成期にも当たり、秀吉の世になると、筆頭茶頭(さどう)に出世し、独自の茶の湯をつくり上げる。
二畳の茶室と躪口(にじりぐち)、茶室を世俗と切り離すための露地(庭の小径(こみち))。一切の虚飾、無駄を削(そ)ぎ落とした狭い空間、そこに厳格 な作法を加えるとき、主客の間には緊張感が生まれ、茶室は神聖な空間となる。利休が到達した美の境地「わび茶」である。
加えて利休が有名なのは、秀吉の側近として仕えたものの、最後に秀吉の怒りを買って自刃(じじん)させられたからだ。死を招いた原因は諸説あっていまだ はっきりしない。
つまり利休という人は、秀吉と出会わなければ、それなりの茶人で終わって今日に至る茶の湯の大成はなかっただろうし、非業(ひごう)の死もなかった。
「千家略系図」によると、利休の下に「亀」という名が記され、もう一つ、後妻宗恩の連れ子(少庵)の嫁に「亀」という名がある。これを見る限り、宗恩の 連れ子は男子であり、利休の実娘の「亀」が少庵に嫁入っている。
「お吟さま」は、今東光(こんとうこう)の直木賞小説『お吟さま』を原作とする。そこには、お吟は「お小さいときにはお亀さまと申(もうし)あげました そうで」と書かれている。「亀」がお吟なら、お吟は利休の本当の娘と思われるが、小説では義理の娘になっている。
映画「お吟さま」は、熊井が初めて挑んだ時代もの、熊井はこの映画で二つのテーマに取り組んだと言える。
一つはお吟の生き方だ。象徴的なシーンがいくつかある。中野良子(りょうこ)演じるお吟は、中村吉右衛門の高山右近と懐かしげに再会する。右近がサンタ マリア(聖なる母)に喜んで命を捧(ささ)げる所存だと告げると、彼女は「ならば私(わたくし)も右近さまを好きになってもよろしいですか?」と聞き、 「他の人のところへは嫁ぎません」とだだをこねる。右近は「うーん、これは困ったなあ」と頭をかく。
お吟の小さな企(たくら)みで暗い部屋で二人きりになり、お吟が右近の胸にもたれかかるシーンでは、愛(いと)しければ、なぜ私を奪ってくれないのかと 迫るお吟に、右近は「ならん、お吟どの、許されん。…おまえさまが命を懸(か)けて愛をとげるというのなら、右近も命懸けで信仰をとげているのだ。わかっ てくれ」と振り切り、立ち上がって障子戸を開け放つ。そこでお吟は「二度とお目にかかりません。幸せな妻となるよう努めます。ごめんくださいませ」と言う。
京都北野の大茶湯(おおちゃのゆ)が催され、三船敏郎演じる秀吉が美貌(びぼう)のお吟を見初めて側妾(そばめ)に所望(しょもう)し、石田三成(みつ なり)や夫の万(も)代屋(ずや)宗安(そうあん)さえもが秀吉に差し出す画策をする。大坂城の黄金の茶室に招かれたお吟は秀吉に言い寄られる。だが、彼 女は「帰らせていただきます」と突っぱね、秀吉に「右近の命、利休の命と引き換えであってもか」と脅かされても翻意しない。
右近への愛を貫き、絶対者秀吉すら恐れず、仕舞には自害に追い込まれるお吟。自分の思いに素直に、自分の意志を何より大事に生き抜く、この時代では稀有 (けう)な「近代的な女」として熊井は描いた。
文と写真/赤羽康男

熊井啓の経歴
熊井 啓(一九三〇-二〇〇七) 映画監督。豊科町(現・安曇野市)に生まれ、松本市で育った。松本中(現・松本深志高)から松本高等学校に入学、新制 の信州大学理学部を卒業した。独立プロの助監督を経て日活撮影所監督部に入社、助監督後、「帝銀事件・死刑囚」で監督デビュー、骨太な社会派監督として活 躍した。「海と毒薬」でベルリン国際映画祭審査員特別賞(銀熊賞)、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏-冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞な ど受賞多数、紫綬褒章も受けた。主な監督作品に「黒部の太陽」「忍ぶ川」「サンダカン八番娼館・望郷」「深い河」ほかがある。